種田山頭火と尾崎放哉
言葉を身にまとって、それを自由自在に操っているように見える人ってのが、僕にとっては一番のヒーローとしての存在なんじゃないかなと昨日ちょっと思った。
そしてなぜか僕が好きだなぁと思う人の大半は、前衛的でぶっ壊れていて、刹那的でポンコツで全然友達になりたいと思えない人が多く、そういう人に強い憧れを抱いてしまっている自分は、いよいよおかしな方向へ進んでいるんじゃないのかなともちょっと思ったりするのです。
種田山頭火と尾崎放哉
同じ師匠の下から出たこの二人は自由律俳句で今は有名だけど、「動」と「静」という分けられ方をしているんでしょう。
でも結局二人に共通するのは多分、「どっちも酒に溺れてどうしようもない人間だった」みたいな感じで片付けられてしまいがちだけれど、僕なりの勝手な判断としては、二人とも単純に社会に出るには傷付きやすく、そして純粋過ぎたんじゃないのかなとちょっと思ったりするわけです。
僕が勝手に好きだなぁと思う俳人や詩人、写真家や画家たちは、なんでそこまでいっちゃうの?っていうような狂気的な部分を多く持ち合わせていて、それを誰かの為に発揮するわけじゃなく、あくまでも自分が納得できる範囲でそれを表現して、知らん間に評価されたり、卑下されたりしながら生きている、もしくは生きていた人ばっかだよなぁと思ったりして、なんともね、それがまた羨ましいなと思ってしまうのが本当のところですわ。
念の為、二人の有名な句としては、種田山頭火だと
- 分け入つても分け入つても青い山
- まつすぐな道でさみしい
- どうしようもない私が歩いている
- 酔うてこほろぎと寝ていたよ
- けふもいちにち風を歩いてきた
- また一枚脱ぎ捨てる旅から旅
尾崎放哉は
- 咳をしても一人
- 足のうら洗えば白くなる
- こんなよい月を一人で見て寝る
などなど。
孤独感と純粋さと、弱さがよく見えるんだけど、もう自分を表現する手法は句を作っていくことしかなかったんだろうなと思うと、ちょっともう、あんたらは本当にもうと、ふわっとしちゃいますわ。
種田山頭火が晩年乞食になり、そのときに書いていた述懐としてこんな文章があるそうです。
無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった
いかんいかん、憧れちゃいかん。
憧れちゃいかんと思うものの、山頭火の本とかを尻のポケットに突っ込んで、無駄に一カ月くらい歩き回りたい気分になりますよね(『なりますよね』って言われてもね)
まぁでもとりあえず、今日図書館に行って二人の本を借りて、久々に寝る前とかにじっくり読んでみますわさ。